目兎龍日記

徒然なるままにオタクが硯に向かひて書くブログです。

かきん

課金。それは人を狂わせる、悪魔の発明。最強のビジネス。

課金経験の有無について、あるいは課金に対する意欲の有無について、その賛否がときたま議論になり、激しい応酬となることもしばしば。人も所詮はヒトであり、争いは生命の本能であるからして、喧嘩はあって当然であるが、この戦いほど不毛なものもないだろうなと思いながらいつも外野で眺めている。

ただ外野で眺めているだけでは卑怯だと思ったので、僕なりの課金に対する考え方をこの久しぶりのブログに綴ることにする。もちろん、賛否あるだろうが、構わず書いていく。

課金について、議論になることと言えばそのほとんどは、いわゆる課金勢と無課金勢の「優劣」であろう。無課金勢は運営に金を落としていないのだから文句を言うな、課金を強制することは悪である、といった具合に両者の間に差をつけ、マウントを取り合う(言い方は悪いが)形の争いが目立つ。彼らは互いに相容れることはなく、そこで言葉のドッジボール状態になってしまう。何度もこのような光景を目にして、そして僕自身も時にはこの争いに参加して、気づいたことがある。彼らが、わかり合うことのない平行線上にいる理由である。以下はあくまで僕の考察であることを最初に示しておく。

彼らは、ものを見ている立場が異なるのではないだろうか。課金の重要性を説き、無課金勢に文句をいう権利がないと謳うのは、そのコンテンツの運営の立場にたっている人たちだ。どれだけ基本無料としてリリースされたサービスでも、維持にはお金がかかる。そのお金を、会社のポケットマネーから賄えばそれは破産まっしぐらだ。そのため、我々ユーザーの中で、「このコンテンツにならお金を払ってもいい」と思う消費者からお金を集めなければならない。そんな運営の立場から見て、圧倒的正義はどちらか。無論、課金勢である。課金により運営はサービスを維持し、ときに向上させたり出来るのだから。そんな彼らにとって、お金をいれてくれない無課金勢の声は(ビジネス的には)不要な声だと言わざるを得ない(もちろん、多くが無課金ユーザーで占めるサービスにおいてはその限りではない)。

一方、ユーザーの立場から見ればどうか。もちろん、サービスを支えているのは課金勢で、無課金勢はその恩恵を十二分に被っている。その意識は重要であろう。しかし、先も述べた通り、本来無料である(少なくとも運営がそう謳っている)サービスにお金を払うか否かは、そのサービスに金銭的価値を見出だすかどうかにかかっている。購買意欲がそそられるか否かだけの違いである。もし購買意欲が刺激されないのなら、運営に「こうすればお金払うよ(大意)」と伝えビジネスを成立させる。つまり課金勢も無課金勢も、等しく同じ「客」なのだ。その間に優劣は存在せず、ましてやサービスの受給者がその間で争う理由はないのである。もちろん、互いに言い分はあるだろう。何度も互いの言い分を見てきているのでそれはよくわかる。しかし、あくまでユーザーは皆等しく、互いの優劣を競い合うのは不毛なのだ(と、「僕は」思う)。

ちなみにここで1つ勘違いしてはいけないのは、無課金勢はその要望を運営に届けることができるが、それは「受注」に当たる行為だということだ。このサービスにおいて私が価値を見出だすのはこれだから、入荷してくれというお客様からの声なのだ。つまり、その受注が正しく受け取られ、求めていたものがユーザーに届いたら、対価を支払うのが筋であろう。本屋に行って、「この本がおいてないから取り寄せて」と求め、実際に届いたら当然料金を支払う。本屋という場は我々にとって無料のサービス(少なくとも入場料はかからない)であるが、商品には価値がある。それを、対価も払わず受け取ろうものなら大問題である。「基本無料」という言葉には、そういう意味があるのではないだろうか。

とはいえ、結局「基本無料」であり、お金を入れなかったからといって契約違反をしているわけでもないし、違法行為をしているわけでもない。日本は私刑が許されない。明らかに法に触れていない限り、互いに罰することはできないのだから、仲良く手を取り合ってサービスを支えていけばいいのである。争いに飢える野生の本能は、一度胸にしまっておいてください。

我慢できない感情を吐き出させてくれ

何事もちょっとかじったら満足してしまう僕にとって、ブログもまた例に漏れなかったらしい。久しぶりにブログを書くことになる。

何を唐突に書く気になったかといえば、がっこうぐらし!最終話についてである。実を言うと、がっこうぐらし!に関しては単行本勢であったため、11巻から最終話までの内容がごそっと抜けた状態で読むこととなった。そのため、感想などを書くのは単行本完結12巻が発売されてからにしようとも思ったのだが、一夜明けなお冷めやらぬ思いをとにかくどこかにぶつけたいと思ったため、ブログにしたためる次第である。なお、先にも述べた通り内容を把握していないままでの感想であるので、本編と矛盾することを言うかもしれないがご容赦願いたい。

さて、がっこうぐらし!といえば、よくも悪くも僕のオタク人生に大きな影響を与えた作品である。それまでほのぼのした劇的なドラマ展開もない日常を描いた作品ばかりを嗜んでいた僕にとって、この作品はあまりに衝撃的だった。非日常を日常に生きる彼女たちの姿は、僕の心に強く印象づけられ、アニメで知ったその瞬間話が気になりすぎて単行本を買い揃えてしまったほどだ。それほどまで僕の心に残った作品の最終回となると、当然その内容が気になる。

普段は買わないきららフォワードを手に取り、最終回を読んだ率直な感想は言葉にできない。一通り読み終えたとき、僕の心にはあらゆる感情が一斉に押し寄せぐちゃぐちゃになってしまったからだ。フォワード発売から一夜明け、少し落ち着いてきたところで、一つ一つ感情を整理していきたい。

まず、彼女たちに未来があって本当に安心した。そのときそのときを必死に生きようとしていた彼女たちにとって、その先に未来が広がっているという結末は最も救われる結末であり、読者である僕自身すごく救われた。また、それぞれがそれぞれの道を歩んでいることを「嬉しい」とみーくんは表現していたが、まさにその通りだ。あの事件がきっかけで一つになった彼女たちが、あの事件を乗り越え別々の道に進む。心が繋がっているという互いへの強い信頼感あってこそのあの選択なのだろう。彼女たちは本編の物語を通して、とても強くなったと思う。個人的には、みーくんが旅をしてその旅先の出来事を「日記」として残して廻っているという生き方が、松尾芭蕉松浦武四郎に近いなにかを感じてすごく好きだ。これからも復興物語を記し続けてほしい。
とはいえ、本編で残された謎がうやむやに終わっているところもあるのは事実だ。一番の謎は、「Ω」の存在だ。作中で当初「Ωはウイルスであり、急速に変異したウイルスが空気感染する」という予測がされ、それが読者である僕もスッと受け入れられた。ところが、彼女たちがランダルコーポレーションで知った真実は、「Ωは細菌である」というものだ。ここで一気に先の見立てが崩れ去った。細菌となると、ウイルスの比にならないほど複雑な構造を持ち、その変異速度も遅くなる。そうなると、なぜ突然空気感染する個体が現れ、武闘派をはじめ多くを苦しめたのか。その謎が深まってしまう。これは推測であるが、もともとΩには接触感染性のものと空気感染性のものが存在し、諸々の騒動のなかで空気感染性Ωも流出してしまったのではないかと考えるのが自然だろう。本編のある意味「核」となる部分がぼかされたのは少し残念だ。
そして、「彼ら」はどうなったのか。3年後、彼女たちは当たり前のように日常を取り戻しつつあるが、少なくとも数億は「彼ら」が存在したはずのあの地球で、それらを全滅させることが果たして可能だろうか。人類は50億羽も存在したとされるリョコウバトを滅ぼした前科があるので、不可能とは言えないが、三年という月日で一掃したのは現実的ではないように思われる。それこそ核武器を用いて広範囲で一斉に攻撃するほかないように思うが、そこは単行本に期待したいところだ。

読者にとって、あの世界はとっくに希望がない世界で、人類にとってある意味捕食者である存在が繁栄した世界である。そんな世界で、その捕食者を滅ぼしなお人類が生き残ったとするあの最終回は、救いこそあれ少しご都合主義が過ぎないかとも思った。「感動した」「よかった」などという簡単な言葉で済まされなかったのは、これだけの感情が一度に沸き上がりうまく表現できなかったからである。

とはいえ、まだ12巻に収められる内容のほとんどを読んでいないので、もしかしたらそこまでの間に語られていることもあるかもしれない。本当の完結を期待して待ちたい。

MAXヤバいぞ、きららMAX【ネタバレ注意】

 電子書籍の普及というのは、私には縁のないものだと思っていた。液晶を眺めるのが苦手な私にとって、読書という目や時間を使う作業をデジタルで行うのは辛いものがあったからだ。でも、使ってみるとやはり便利なのは否定できない。雑誌や本が発売日になった瞬間に手にはいるのはありがたい。ネタバレなど恐れず、すぐに内容を確認できるのは、電子書籍ならではだろう。

 

 さて、そんな電子書籍で今月の「まんがタイムきららMAX」(以下MAX)を発売日の0時に購入した。日付を跨いで起きているのは苦手な私だが、いわゆるMAXタイムを経て内容が気になりすぎていたので多少無理をしてでも内容を確認してから寝たいと思ったからだ。とりあえずは、MAX購読の理由でもある「ステラのまほう」だけでも目を通して、残りは朝起きてから読もうと思いMAXを開いたのだが、これが大きな過ちだったのは言うまでもない。眠れるわけがなかった。

 

 まずはステラのまほうだ。作品内の問題児、百武照がメインの回らしい。僕は作品内のキャラクターを、その作品で一番推しているキャラがどう呼ぶかに倣って呼ぶことにしているので、テルさんと呼ぶことにする。テルさんの生きる理由、考え方がたまちゃんに伝えられ、大学を辞めたきっかけが朧気ながら判明する大事な回なのだが、おかしい。なぜか、どれも見たことがある気がする。新鮮味がない。

 これは間違いなく、あの話題作「なんどでもゆめみてる」の影響だろう。ステラのまほう読者が一同に介し、思い思いの百武照を描き出した同人誌なのだが、そこで読んでいた百武照像と思いの外違わなかった。改めて皆さんの考察力に恐れ入ったと同時に、これはあくまで氷山の一角でもっともっと底知れぬ闇が彼女には潜んでいるのだろうと期待が高まった話であった。

 ただ、少し心配になったこともある。今月号のステラのまほう、恐ろしいほどに表記揺れがあったのだ。今月号の中で表記が揺れていたわけではない。今までの話と、今月号でビックリするくらい違うところがあった。例えば、たまちゃんは通常百武照をテルさんと呼び、だからこそ私は先の文でもテルさんと表記した。しかし、今月は一貫して照さん表記になっていて、また一部では照先輩呼びになっていた。さらに、我々ファンなら記憶に残っているであろうイベントを経て「歌夜先輩」と呼ぶようになった藤川歌夜のことを、あろうことか「藤川先輩」と呼ぶようになっていた。私の記憶では、呼び方を戻すようなイベントはなかったはずだが、なぜ呼び方が戻っていたのだろうか。今後の話で何か裏が明らかになるなら話は別だが、そうでなければくろば先生が疲れているのではないかと心配になってしまう。先生には休んでいただきたい。

 

 今月のMAXを読んで眠れなくなったと言ったが、正直眠れなくなったのはステラのまほうのせいではない。今月はとんでもない展開の話が多すぎたのだ。例えば、今月が最終回の「サジちゃんの病み日記」、怒濤の展開になった「魔王城ツアーへようこそ!」がその代表である。特に後者については、あまりに唐突すぎてもしや打ち切りになったのではないかと不安になった。かと思えば、平常運転な「きんいろモザイク」や「ご注文はうさぎですか?」、ある意味平常運転な「初恋*れーるとりっぷ」など我々に癒しをもたらす作品も存在し、感情の起伏が激しい一冊であったのが、眠れなくなった主な原因だろう。

 

 本当に、MAXは侮れない。次々と問題作をもたらしてくる。次号ではあの相崎うたう先生がMAXに帰ってこられるということだし、今後もどうなることやら。楽しみで仕方がない。

まんがタイムきららの世界

 見えない敵との戦いを繰り広げるのが、オタクの悲しい性である。今日はそんな見えない敵と、戦っていこうと思う。その敵とは、

 

「きららに男はいらない」

 

と言うとされるオタクの一集団である。実際私はそのような人を見たことはないし、見たとしてもそうは考えない人が自らの言説を正当化するために引用しているだけである。彼らはその存在こそ実証されないが、確かにそこにいるとされるオタク界のUMAである。科学の進歩した時代に、UMAについて真面目に議論するのはばかばかしいことかもしれないが、しかし人間とは未知の探求を止められない生き物なのだ。

 今日は私のバカげた科学にお付き合い願いたい。これはフィクションだ。

 

 そもそも、この言葉が生み出されるに至った背景は何か。考えてみると、それは「まんがタイムきらら」に掲載される作品の特異な性質が大きく影響している気がする。というのも、まんがタイムきらら及びその姉妹雑誌(以下、きららとする)に掲載される作品には、概ね男性キャラクターが少ない。もちろん誤解なきよう言っておくが、いないわけではない。ただ、男性キャラが目立っている作品(とりわけ主人公クラスの作品)となると、多くのきらら作品の中でも限られてくる。

 そして、我々が今戦っている仮想敵は、得てして原作を読まずアニメのみを視聴するという場合が多い。むろん、悪いことではない。アニメがきっかけで作品を、きららを知ることはおおよそ可能だし、実際私もアニメからこの界隈に入ったものだから、そのような存在が悪いとは決して思わない。しかし、アニメで描かれるきららの世界は、その奥に潜む無限に広く深い世界のほんの上澄みに過ぎないのだ。アニメを制作するにあたり、原作の雰囲気を重視するかアニメオリジナルの雰囲気を醸し出すかはその制作陣の裁量だが、いずれにせよ彼らも商売である以上、売らなければならない。

 そうすると、作品の主なターゲットである男性(実体験的な推測である)を前提にした場合必然的に女性キャラクターを前面に押し出さなければならない。その結果、そこに描かれる世界は女性が中心となり、恋愛に至らずとも関係性を描き出す時も女性同士になることが多い。このような世界では、男性の目線を担当するのは我々「客」であり、その世界に男性が侵入することは無断で「サービス」を横取りされるようなものだ。かくして、特にアニメに関しては、きららの世界から男性は排除され、女性ばかりが目立つようになるのだろう(再三申し上げるが、例外は無数にある)。このように考えると、少なくともこの「上澄み」を眺める限りでは、男性キャラが必ずしも必要だとは言えなくなるのだ。問題はここからである。

 

 以上のようにして、我々が戦うべき相手が完成した。ようやく戦いを開始できる。何度も言うがこれはオタクの宿命である。いないはずの敵を作り上げ完膚なきまで叩きのめし、自らを正当化するのは生きとし生けるすべてのオタクが通る道である。コメディを読むつもりで続きもご覧いただきたい。

 

 論戦において重要なのは、相手に崩されないための完璧な地盤、つまりは明確な根拠である。私がここまでフィクションの世界での戦いを挑もうとしているのも、明確な根拠を手に入れたからだ。そしてここで一つだけ補足するが、今回我々が目指す目標は「きららに男はいらない」の否定、すなわち「きららに男が必ずしも不要なわけではない」である。作品によってはそれこそ男が不要な作品(というか、男が混じるとめんどくさそうな作品)もあるので、「きららに男は絶対必要だ」とは私は言い切れない。むろん、これは私の力不足なのかもしれないが。

 話がそれた、本題に戻ろう。では、本当にきららに男は不要ではないのだろうか。その答えは、一昨日訪れた「まんがタイムきらら展in大阪(以下、きらら展)」」にあった。もともとうちのまいこ先生のサイン会に応募したところ運よく当選し、それならばと参加したので、言葉は悪いが展示については当初どうでもよかった。あの頃に戻れるならば、当時の私を叱責し絶対に展示を見ろと注意したい。ともかく私は、運が味方しきらら展の展示に足を踏み入れたのだ。そしてそこで、私は偶然この命題の答えに出くわしたのである。というか、答えを見つけてからこの命題を考え始めたようなものだ。

 意外にもその答えは、展示スペースに入ってすぐのところにあった。『まんがタイムきらら』創刊趣意文である。この文章は、会場で販売されている図録にも掲載されているのでそこから引用すると、「既存の4コマ誌になかった萌え系美少女・SF・ファンタジーといった、明るく夢のある題材を取り上げ・・・」とあり、必ずしもこの世界が「萌え系美少女」のみからなる世界ではないことを示唆している。さらに、「『きらら』とは、その希望や夢や勇気やときめきといった『輝かしいもの』を表し」とあるように、きららという概念が我々の抱く明るい感情の代名詞であることが決定づけられている。

 思い出してほしい。子供のころ、我々が希望や夢や勇気やときめきを何から学んだか。仮面ライダーか?戦隊ヒーローか?ウルトラマンか?プリキュアか?いや違う。もっと前、我々日本人の根幹にある正義や希望は、「アンパンマン」に学んだもののはずである。アンパンマンは確かに我々に希望や夢や勇気やときめきを教えてくれたが、彼は男性である。我々に「輝かしいもの」をくれるのは、必ずしも「萌え系美少女」だけではない。そのなかに、男性が混じっていようがそれは「きらら」になりえるのだ。

 

 つまり、だ。今戦っている見えざる敵のいう「きららに男はいらない」というのは、「きらら」というものは何かという大前提をわかっていない全く的外れな言説なのである。これで、これからいくら見えざる敵が戯言とともに襲って来ようとも、このブログを読めの一言で退治できる。はずである。

人間「誰が生んでくれと頼んだ」 私「」

「誰が生んでくれと頼んだ」

 

 最近よく、この言葉を見かける。特にツイッターで。

「誰が生んでやったと思ってるの」「誰が生んでくれと頼んだ」

大体こんな感じで、やり取りの一部で使われる一種の構文のようになっている。

 

 僕はこの言葉が大好きだ。というのも、この言葉ほど人を人たらしめている言葉はないと感じるからだ。以下に、そう思う理由をあげていこうと思うが、ひねくれ者の生み出す駄文なので笑いながら読んでくださるとありがたい。

 

 まず、ヒトに限らず生物が子を残すのはなぜだろう。生物誕生からおよそ40億年、形は違えどすべての生物が子孫を残しながらその生命のバトンをつないできた。その結果、今現在地球に数千万種ともいわれる生物が存在している。日々新たな種が生まれ、ある種が絶滅してを繰り返す。絶滅の件に関しては、また別にブログにするつもりだが、とにかくこの「子を残す」という営みは、命あるものすべてが行う行為なのだ。

 それはなぜか。ズバリ言おう、種の保存のためである。生物が栄養を摂取し、子孫を残すのはすべて、自分が属する種を守るためである。もっと言えば、自分が持つ唯一無二のゲノムを、後世までつなぐためである。だからこそ生物は生き残りをかけた競争を勝ち抜き、その過程で独自に進化してきたのだ。この辺の知識については、高校生物で勉強していただきたい。なぜ子孫を残すのかという根本的な理由については定かではないが(というより私は知らないが)、いずれにせよ生物が子孫を残すのは、自分の持つ遺伝子群を脈々とつないでいくためなのだ。

 つまり、生物が子孫を残す行為は、それ自身が遺伝子に刻まれた本能であり、その行為に本来疑問の残る余地はないのである。

 

 ここまで考えたうえで、最初の言葉について考えよう。

「誰が生んでくれと頼んだ」

という言葉である。上のように考えるならば、ヒトも他の生物と同様に、自らの遺伝子を残すために子を残し、生まれたからにはその遺伝子を次の世代に残すのが自然である。こんなことをいうと、過激な何か思想にとらわれているのではないかと心配されるかもしれないので、あくまでも「一種の生物として」考えた時の話だと付け加えておきたい。

 そもそもこの営みは本能であり、生む理由、生まれる理由については遺伝子の結果なのだ。我々の肉体が遺伝子の乗っている船だと表現した人もいるが(利己的な遺伝子という考え方である)、結局我々の存在を生み出しているのは、遺伝子なのだ。つまり先に述べた「誰が生んでくれと頼んだ」という命題への答えは、残念ながら発言者自身の体に存在する遺伝子だということになる。悲しいがこの事実は変えられない。あなたが生物である限り、一生。

 

 私はこの疑問を、最高に人間的だから好きだといった。ここまで読んでくださった方なら、なんとなくわかってくださった方もいるだろうか。そう、繁殖は本能であり、本来疑問を抱くことはないはずなのに、我々人は疑問を抱く。本当に面白い。

 ではなぜ我々はこの本能に逆らう疑問を抱くのか。ここからは、私の妄想である。再び忠告するが、読むなら笑っていただきたい。

 

 我々人は、というよりホモ属は、先祖から「死」というものを恐れた。死者の埋葬という文化はネアンデルターレンシスにもあったらしいから、それほどまでに「死」という概念は我々を苦しめてきた。このきつく締められた鎖は、やがて我々に生きる意味を考えさせる。名だたる宗教が生や死を考え、風土や慣習に合わせ独自の答えを導き出してきたのも、その行為のたまものだといえるだろう。このような流れは、いずれも我々が思考や感情を持つようになったことで生まれたものだろう。思考、感情やそれを言語化する行為は、数多の生物種の中でもヒト(Homo sapiens)固有の行為である。

 そして、生や死を考えるうちに、我々は「自己」について考えるようになる。思考の対象は集団から個体に向けられ、我々はいつしか、集団に先立つ自分を想定するようになったのではないか。この思考のプロセスは、高名な哲学者はともかく一般人にとっては「自己中心」の考え方を生むきっかけになっただろう。現代人にとって、個は集団より優先され、集団の維持が何よりも優先されるべきことではなくなっていった。これが、「誰が生んでくれと頼んだ」という言葉の本質であり、同時に最高に人間臭い言葉だと考えるのだがいかがであろうか。

たわいもない親子の揉め事からここまで思考を飛ばせるのだから、「人間観察」を趣味の一つだと言い切ってよいと思うのだがどうだろうか。こんなことを気まぐれに、徒然なるままに書いていこうと思うので以降もよろしくお願いします。