目兎龍日記

徒然なるままにオタクが硯に向かひて書くブログです。

人間「誰が生んでくれと頼んだ」 私「」

「誰が生んでくれと頼んだ」

 

 最近よく、この言葉を見かける。特にツイッターで。

「誰が生んでやったと思ってるの」「誰が生んでくれと頼んだ」

大体こんな感じで、やり取りの一部で使われる一種の構文のようになっている。

 

 僕はこの言葉が大好きだ。というのも、この言葉ほど人を人たらしめている言葉はないと感じるからだ。以下に、そう思う理由をあげていこうと思うが、ひねくれ者の生み出す駄文なので笑いながら読んでくださるとありがたい。

 

 まず、ヒトに限らず生物が子を残すのはなぜだろう。生物誕生からおよそ40億年、形は違えどすべての生物が子孫を残しながらその生命のバトンをつないできた。その結果、今現在地球に数千万種ともいわれる生物が存在している。日々新たな種が生まれ、ある種が絶滅してを繰り返す。絶滅の件に関しては、また別にブログにするつもりだが、とにかくこの「子を残す」という営みは、命あるものすべてが行う行為なのだ。

 それはなぜか。ズバリ言おう、種の保存のためである。生物が栄養を摂取し、子孫を残すのはすべて、自分が属する種を守るためである。もっと言えば、自分が持つ唯一無二のゲノムを、後世までつなぐためである。だからこそ生物は生き残りをかけた競争を勝ち抜き、その過程で独自に進化してきたのだ。この辺の知識については、高校生物で勉強していただきたい。なぜ子孫を残すのかという根本的な理由については定かではないが(というより私は知らないが)、いずれにせよ生物が子孫を残すのは、自分の持つ遺伝子群を脈々とつないでいくためなのだ。

 つまり、生物が子孫を残す行為は、それ自身が遺伝子に刻まれた本能であり、その行為に本来疑問の残る余地はないのである。

 

 ここまで考えたうえで、最初の言葉について考えよう。

「誰が生んでくれと頼んだ」

という言葉である。上のように考えるならば、ヒトも他の生物と同様に、自らの遺伝子を残すために子を残し、生まれたからにはその遺伝子を次の世代に残すのが自然である。こんなことをいうと、過激な何か思想にとらわれているのではないかと心配されるかもしれないので、あくまでも「一種の生物として」考えた時の話だと付け加えておきたい。

 そもそもこの営みは本能であり、生む理由、生まれる理由については遺伝子の結果なのだ。我々の肉体が遺伝子の乗っている船だと表現した人もいるが(利己的な遺伝子という考え方である)、結局我々の存在を生み出しているのは、遺伝子なのだ。つまり先に述べた「誰が生んでくれと頼んだ」という命題への答えは、残念ながら発言者自身の体に存在する遺伝子だということになる。悲しいがこの事実は変えられない。あなたが生物である限り、一生。

 

 私はこの疑問を、最高に人間的だから好きだといった。ここまで読んでくださった方なら、なんとなくわかってくださった方もいるだろうか。そう、繁殖は本能であり、本来疑問を抱くことはないはずなのに、我々人は疑問を抱く。本当に面白い。

 ではなぜ我々はこの本能に逆らう疑問を抱くのか。ここからは、私の妄想である。再び忠告するが、読むなら笑っていただきたい。

 

 我々人は、というよりホモ属は、先祖から「死」というものを恐れた。死者の埋葬という文化はネアンデルターレンシスにもあったらしいから、それほどまでに「死」という概念は我々を苦しめてきた。このきつく締められた鎖は、やがて我々に生きる意味を考えさせる。名だたる宗教が生や死を考え、風土や慣習に合わせ独自の答えを導き出してきたのも、その行為のたまものだといえるだろう。このような流れは、いずれも我々が思考や感情を持つようになったことで生まれたものだろう。思考、感情やそれを言語化する行為は、数多の生物種の中でもヒト(Homo sapiens)固有の行為である。

 そして、生や死を考えるうちに、我々は「自己」について考えるようになる。思考の対象は集団から個体に向けられ、我々はいつしか、集団に先立つ自分を想定するようになったのではないか。この思考のプロセスは、高名な哲学者はともかく一般人にとっては「自己中心」の考え方を生むきっかけになっただろう。現代人にとって、個は集団より優先され、集団の維持が何よりも優先されるべきことではなくなっていった。これが、「誰が生んでくれと頼んだ」という言葉の本質であり、同時に最高に人間臭い言葉だと考えるのだがいかがであろうか。

たわいもない親子の揉め事からここまで思考を飛ばせるのだから、「人間観察」を趣味の一つだと言い切ってよいと思うのだがどうだろうか。こんなことを気まぐれに、徒然なるままに書いていこうと思うので以降もよろしくお願いします。