目兎龍日記

徒然なるままにオタクが硯に向かひて書くブログです。

わかり合うことなんてできないよ

私は、自己と他人はわかり合えないものだと考えている派閥である。最初に言っておくが、オタクの戯れ言である。

当たり前だと思う。数千万年に及ぶ人類の歴史のなかで、我々はそれぞれの背景でそれぞれの価値観を構築してきた。いわゆる「多様性」である。それは、文化的なものや精神的なものなど様々な活動に影響をもたらしていて、いわば自己の根幹である。それを同じくしない存在から、突然わかってもらうことなんて無謀であるし、そんな彼らのことをわかろうとするのもまた同じである。我々は、決してわかり合うことなどできないのだ。

では、「共存」は不可能なのだろうか。そんなことはないと思う。これは、共存のために必要な考え方が重要になってくる。先に述べた通り、人はわかり合えない。しかし、相手に理解を示さずとも、触らないことはできる。触らぬ神に祟りなしというやつだ。わからないからといって攻撃する、排除するというスタンスこそ、多様性への冒涜であり共存の道を閉ざすことに繋がる。我々は、「多様性」という言葉を盾にして己のマイノリティー的価値観を正当化しがちであるが、それはお門違いだと私は思う。多様性とは、自己の正当化のための言葉ではなく、他者への寛容のための言葉である。いろんな人がいるから、私の考えを尊重しろではない。いろんな人がいるから、そんな考えの人もいるよねである。決して、他者に対して暴力的になってはいけない。生命は異質を好まないので、排除という行為は極めて本能的なものだと思う。私自身、異質な存在には違和感を覚えるし、受け入れがたいとおもうことだってある。しかし、だからといってそれを頭ごなしに否定し、攻撃するようでは、野蛮だと言わざるを得ない。共存とは、わかり合うことではなく、否定しないことである。

さて、ここまで読んできて薄々お気づきだろうが、例の件に触れようとしているのである。センシティブな話題なので迂闊なことは言えないとわかりながらも、自分の考えを示すことは重要だと考えているので、ここに綴ることにした。

人が何を好むかという価値観の話題を扱うとき、その人の背景を無視することはできない。ある人の価値観とは、その人の人生やその人自身である。それぞれの生まれや育ち、周りの環境などの外部要因によって左右されることが多いと思う。70億人以上もいる人類のうち、自分と全く同じ道筋で育ってきた人なんていない。そもそも親が違うのだから、全く同じにはなり得ない。だから、我々はわかり合うことなんてできないのだ。しかし、かといって他者の価値観とは否定されていいものだろうか。価値観とは人生、その人自身だという見解を示したが、だとすると価値観の否定はその人自身の否定に繋がる。それまで歩んできた道のりを、人生を、根底から否定してしまうことに繋がる。大変危険なことだと思う。我々は、自分と違う考えを無視することができる。そういう考えもあるかと軽く受け流すことだってできる。例え相手が噛みついてきたとしても、わざわざそのジャブを受けに行くことはない。触らなければいいのだ。ましてや自分から覗きに行って攻め立てるなど言語道断だ。無視というと聞こえは悪いが、決してそれは存在の否定ではない。考え方に理解を示しつつも、それに言及しないということである。今回の一件には、攻撃性というものを感じたので綴った次第である。

とはいえ、私はこう思うが中には「違うものは排除だ!」という考えの人もいるだろう。私はそんな考えの人にも一定の理解を示す。ここまでずっとそういう話をしていたのだから。だから攻撃しないでね。