目兎龍日記

徒然なるままにオタクが硯に向かひて書くブログです。

まんがタイムきららの世界

 見えない敵との戦いを繰り広げるのが、オタクの悲しい性である。今日はそんな見えない敵と、戦っていこうと思う。その敵とは、

 

「きららに男はいらない」

 

と言うとされるオタクの一集団である。実際私はそのような人を見たことはないし、見たとしてもそうは考えない人が自らの言説を正当化するために引用しているだけである。彼らはその存在こそ実証されないが、確かにそこにいるとされるオタク界のUMAである。科学の進歩した時代に、UMAについて真面目に議論するのはばかばかしいことかもしれないが、しかし人間とは未知の探求を止められない生き物なのだ。

 今日は私のバカげた科学にお付き合い願いたい。これはフィクションだ。

 

 そもそも、この言葉が生み出されるに至った背景は何か。考えてみると、それは「まんがタイムきらら」に掲載される作品の特異な性質が大きく影響している気がする。というのも、まんがタイムきらら及びその姉妹雑誌(以下、きららとする)に掲載される作品には、概ね男性キャラクターが少ない。もちろん誤解なきよう言っておくが、いないわけではない。ただ、男性キャラが目立っている作品(とりわけ主人公クラスの作品)となると、多くのきらら作品の中でも限られてくる。

 そして、我々が今戦っている仮想敵は、得てして原作を読まずアニメのみを視聴するという場合が多い。むろん、悪いことではない。アニメがきっかけで作品を、きららを知ることはおおよそ可能だし、実際私もアニメからこの界隈に入ったものだから、そのような存在が悪いとは決して思わない。しかし、アニメで描かれるきららの世界は、その奥に潜む無限に広く深い世界のほんの上澄みに過ぎないのだ。アニメを制作するにあたり、原作の雰囲気を重視するかアニメオリジナルの雰囲気を醸し出すかはその制作陣の裁量だが、いずれにせよ彼らも商売である以上、売らなければならない。

 そうすると、作品の主なターゲットである男性(実体験的な推測である)を前提にした場合必然的に女性キャラクターを前面に押し出さなければならない。その結果、そこに描かれる世界は女性が中心となり、恋愛に至らずとも関係性を描き出す時も女性同士になることが多い。このような世界では、男性の目線を担当するのは我々「客」であり、その世界に男性が侵入することは無断で「サービス」を横取りされるようなものだ。かくして、特にアニメに関しては、きららの世界から男性は排除され、女性ばかりが目立つようになるのだろう(再三申し上げるが、例外は無数にある)。このように考えると、少なくともこの「上澄み」を眺める限りでは、男性キャラが必ずしも必要だとは言えなくなるのだ。問題はここからである。

 

 以上のようにして、我々が戦うべき相手が完成した。ようやく戦いを開始できる。何度も言うがこれはオタクの宿命である。いないはずの敵を作り上げ完膚なきまで叩きのめし、自らを正当化するのは生きとし生けるすべてのオタクが通る道である。コメディを読むつもりで続きもご覧いただきたい。

 

 論戦において重要なのは、相手に崩されないための完璧な地盤、つまりは明確な根拠である。私がここまでフィクションの世界での戦いを挑もうとしているのも、明確な根拠を手に入れたからだ。そしてここで一つだけ補足するが、今回我々が目指す目標は「きららに男はいらない」の否定、すなわち「きららに男が必ずしも不要なわけではない」である。作品によってはそれこそ男が不要な作品(というか、男が混じるとめんどくさそうな作品)もあるので、「きららに男は絶対必要だ」とは私は言い切れない。むろん、これは私の力不足なのかもしれないが。

 話がそれた、本題に戻ろう。では、本当にきららに男は不要ではないのだろうか。その答えは、一昨日訪れた「まんがタイムきらら展in大阪(以下、きらら展)」」にあった。もともとうちのまいこ先生のサイン会に応募したところ運よく当選し、それならばと参加したので、言葉は悪いが展示については当初どうでもよかった。あの頃に戻れるならば、当時の私を叱責し絶対に展示を見ろと注意したい。ともかく私は、運が味方しきらら展の展示に足を踏み入れたのだ。そしてそこで、私は偶然この命題の答えに出くわしたのである。というか、答えを見つけてからこの命題を考え始めたようなものだ。

 意外にもその答えは、展示スペースに入ってすぐのところにあった。『まんがタイムきらら』創刊趣意文である。この文章は、会場で販売されている図録にも掲載されているのでそこから引用すると、「既存の4コマ誌になかった萌え系美少女・SF・ファンタジーといった、明るく夢のある題材を取り上げ・・・」とあり、必ずしもこの世界が「萌え系美少女」のみからなる世界ではないことを示唆している。さらに、「『きらら』とは、その希望や夢や勇気やときめきといった『輝かしいもの』を表し」とあるように、きららという概念が我々の抱く明るい感情の代名詞であることが決定づけられている。

 思い出してほしい。子供のころ、我々が希望や夢や勇気やときめきを何から学んだか。仮面ライダーか?戦隊ヒーローか?ウルトラマンか?プリキュアか?いや違う。もっと前、我々日本人の根幹にある正義や希望は、「アンパンマン」に学んだもののはずである。アンパンマンは確かに我々に希望や夢や勇気やときめきを教えてくれたが、彼は男性である。我々に「輝かしいもの」をくれるのは、必ずしも「萌え系美少女」だけではない。そのなかに、男性が混じっていようがそれは「きらら」になりえるのだ。

 

 つまり、だ。今戦っている見えざる敵のいう「きららに男はいらない」というのは、「きらら」というものは何かという大前提をわかっていない全く的外れな言説なのである。これで、これからいくら見えざる敵が戯言とともに襲って来ようとも、このブログを読めの一言で退治できる。はずである。